vaiduryamuscari’s diary

自分用日記

自由と責任と主体性

具体的に分かり易い文章はターゲットごとに支持を集めるが、私は誰かの何かを連想させる抽象的な言葉を使ってきた。

本当に分かっているの?

皆んな疑問に思うのでしょう囧rz

結局何が言いたいの?

結論は自分で出そう(*^o^*)

 

夕沈み 電車の騒めき 振動す 私もあなたも 振動す

 

かの戦術史家の諸葛亮孔明はこう語っている。

肉まん大好きー!!!

素直になれないのは損だな〜

 

最近私は素直になることと主体性を考える。

 

自分で動く、素直に動く、もっと早く動く。もっと丁寧に仕事をこなす。空気のように気配を消す。

それはより自由で縦横無尽ではないか。責任を伴いながら、より自由な事は実は主体性がなければならないのではないか?

主体性とはなんぞや、責任は?自由って?

 

3つが絡み合いながら、自分の中で成長していく言葉となった経緯を経て、汝に問う。

 

貴方が考える自由ってなんですか?

 

 

 

 

哲学者の語る建築 マルティン・ハイデガー

今日は黒川紀章建築都市設計事務所の設計の図書館へ。

 

哲学者の語る建築という本のハイデガーの言葉を読む。

「詩人のように人間は住まう」

後期ヘルダーソンの詩歌の一文を引用してハイデガーは論を立て始める。…

 

「ひとつは、われわれが実存とよんでいるものを、住まうことの本質から考えることである。もうひとつは、詩を詠うことの本質を住まわせることとして考えること、それもたぶん住まうこととして建てることと考えること、である。もしわれわれが今いったこの観点から詩を詠うことの本質を考えれば、われわれは住まうことの本質に到達することになる。」…

 

このあと、論はどのような帰結を得たのだろうか。

 

詩を詠うことの本質を、地上の尺度を受け取る行為となるとの帰結を得る。

 

詩を詠うという行為が、この世の万物の存在を、その都度、測る、という行為となるとしている。

 

別な国の詩という別な言語なのに、日本のあはれという言葉を、同じ本質をつなぐことにより、これほどまで深く考察した文を、私の拙い読書を通してだが、今まで見受けられない。

 

 

秋桜

自分の生活の全てを愛でたい。

 

生前から脈々と続いて、私は生を授かった。

私は、私の全てである、ありとあらゆる感情や経験をその時々に抱いて今まできている。私の生の過去がある。

 

現在と過去の全てが一致するその時、私の居場所が見つかり、己の生活は言葉を超えた詩になる。

 

 

言葉を使うのは、きっと、言葉の意味を知り、超えようとするからなのではないだろうか。

 

人生は芸術だ。言葉はあまり必要でない。言葉以外の詩があまりにも人生には多かった。ある言葉による抽象は、抽象の時点で余りにも多くの意味を失って、それ以外の意味を帯びる。

 

芸術である人間が、自らを結晶化したモノもまた芸術になるという出来事に救われる。

言葉を介さないでも人は繋がれる証明となる。

果たして私は私を結晶化できるのか?

学びと実践と統合は続く。

 

日記を見返して分析すると、私の文章は私の叫びを現していた。文章を書くことや日常での経験を通して、徐々にだが、叫びは、中原中也の云う所の歌となっている。

 

きっと他人には歌が聴きやすいだろうし、私も今や歌が聴きたい。

 

もろともに あはれと思え 山桜 花も昔の 香ぞにほいける

もろともに あはれと思え 秋桜 背にも腹にも 香ぞにほいける

 

返歌は長く掛かってもいいじゃないか。

 

 

日々の生活の詩

和而して同ぜず。母校の校訓は孟子から来ていて、きっと、思想と呼ばれるモノはあまりにも広い経験というコトが、、、

 

酷いコト、優しいコト、楽しいコト、辛いコト、嬉しいコト、悲しいコト、有り得ない神がかったコト、食べるコト、寝るコト、起きるコト、小鳥が泣くコト、猫が無視するコト、、、

 

広い経験というコトがモノになって、、、

壁画というモノ、リンゴというモノ、建築というモノ、水というモノ、小鳥というモノ、猫というモノ、人というモノ、骨というモノ、薬というモノ、、、

 

産まれたモノに、またコトが生じ、、、

 

コトがモノを規定し、モノがコトを産み、、、

 

陰陽が、その為に、、、

光粒子がエネルギーを運び、、、

ブラックホールがエネルギーの差の辻褄合わせを、、、

人がモノゴトに意味を投影し、削りながら真理を探り、、、

 

母は死に際に私の手を握った。

父は人の一生という人生が芸術だという。

 

モノがコトを、コトがモノを産む。

 

正義であったモダニズムが現代の均質空間を作り悪に見え、人はまた違うモノゴトを考え出す。

 

建築という行為をし、そのモノが群となる、この世界に住まうというコトは、この世界を愛するという覚悟なのかもしれない。

 

私は人の幸不幸は決められず、それでもより豊かな世界を永遠に目指す過程の一端に、居場所を構えられたら幸せだ。

 

覚悟という言葉の意味に気付き始めた帰りの電車の中だった。

 

 

 

 

パース描いてたら現場行くの巻

複合型集合住宅現場メモ

 

コンクリートかぶり厚さ30

地下ふかし20

計50mm

 

cセパレート、配筋、せん断力補強の斜め配筋、リブ、溶接部分、梁配筋上げてスリーブを通して配筋下ろす。型枠工事の大工の準備が着工一月前、スラブ凹の部分に設備とスリーブ、1日でコンクリート上歩ける、外壁汚さない内側傾斜のベランダ手摺と内側のドレン菅、サッシ溶接部分埋め込み、各住戸内に設備を納めるスラブ上の設備、コンクリートスラブのコテならし、コンクリート内電気用スリーブ?、、、

基礎、配筋ある程度、型枠足場の順番

 

パース描くメモ

納まりと見え方と構造の順列、言い換えると、守るべきことの余白のデザイン。

足場はBT足場だった。

 

莫大な知の結晶のエネルギーを感じる。

これ修士製作でやるのかー、、、

 

 

 

それぞれの孤独と対価としての武器の創造

人はそれぞれの孤独を抱えた分、武器を創るのではないか。

 

私の所属する研究室ではある者は哲学と幾何学の知識を、またある者は神学と絵筆の技術を併せ持っている。

 

なら私の武器は?

タバコ仲間との会話により発露した。だから私は孤独について考える。

松田家のルールの分析能力と頭の良さ、西村家のモノゴトへの感受性と筋の通し方を足しあわせ、私が1番実現したい事は2つの錬金である。

法律と天文学と薬学を武器として洗練しよう。

 

本質と思われていたコトは変わってしまった。しかし、変わる中にもっと核心に迫る本質があるのではないか。

 

ウィトルウィウス建築書より学ぶ。

 

 

 

記録としての日記2

個人的な事を書く事自体が描き方によっては浅ましい上に、私という人間の薄さが露見してしまうが、私の成長の過程の記録として書く。

 

収入や支払いという事について個人的な経験を元に書いてみたい。

 

能力の報酬に応じてお金を与えるというのが資本主義の社会と頭で考えていたが、私の経験は少し異なる見解を示し始めた。

お金は与えるものではなく、誰かに預けるものであり、預かるものである。というのが結論だ。

 

大学院1年の当時、私は父から2〜3ヶ月に1度という期間で、一月に平均7〜8万というお金をもらっていた。もらっていたというのが正直な意識である。

バイトをしたり、働いたり、引っ越したり…と紆余曲折を経て、今年度では、おそらく年間で300万円程預かるであろう。私は300万円を任されるに足る人間になったのかもしれない。

思い返せば、大学院1年の当時、お金の価値、使い方や節約の仕方、誘惑される魔力めいた力などについて経験がなく、正直なところ考えもしていなかった。

父の目には息子はお金を預けるに足る人間ではなかったのだろう。

 

具体的に話してみる。

私は9月27日に親戚の家に引っ越す事にした。お世話になっている不動産には既に申告してある。この事を父に相談するのだが、ただ引っ越すために金をくださいというのではお金を貰うだけになる。我が家では「申請書」を作って、みてもらうのが一番早い。

私が書く事はシンプルで、引越しにかかる総費用、今後親戚の家に引っ越す事によってかかる総合的なお金と引越しをしない時のお金の比較など、引っ越す事による様々なメリットデメリットの比較である。

その上で父に物理的にお金を預かるのは可能かどうか考えてもらい、任せていいと思えるお金を預けて頂く。この一連のお金の扱いは必ず必要になる。

自立とは、親がいなくても、家族ができても、私が私としてしっかり生活していく事ができるという事である。人様に迷惑を掛けないという事である。

 

家を建てる仕事を考えてみる。

1000万から1億くらいのお金と人の一生を預かり家を建てる。その意味を探し始める器は出来たように思う。

 

言葉とは不思議なもので、真実に触れようとすればする程、遠退いてしまうように感じながら、ただがむしゃらに追いかけていた。

今後は言葉とは少し距離を置いて、動きます。

 

今年度の終わり頃、日記を再開しようと考えました。何か今の意志以上の力がない限り、そのようにしようとおもっております。

 

では、おやすみなさい。