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vaiduryamuscari’s diary

自分用日記

夢日記

夢の中で考え事。

一本の木だけ存在していた時、それは木とは認識出来ない。それは唯一無二のよく分からないが存在している理解不能なモノとしての神となる。

木という本質を人が得るには、木を見聞きするという経験の反復がいる。経験の集積の中で、類型として認識されたコト(客観的出来事、主体的出来事)と差異として認識されたコトが生じ、個人に記憶され、本質を掴み始める。記憶は本質が記号として個人の中に刻印されることである。そこに木という言葉を当てはめると、人同士で伝聞が可能となる。

更に、記号化された言葉が増えると言葉の構築によって更に木という範囲が広く深くなる。類、種、科などの分類、年輪の重ねた古樹、生態系の関わりなど。

経験知と理論知によって個人の記号は脳内で膨大なネットワークを張り巡らせる。

言うまでもなく、記憶が違うので木と聞いて想像する事が個人によって違う。我々は何もお互い共有できていないが、共有できていると誤読しながら生きている。

人は何かを見た時に差異と類型を取る。

苔生した木と丘の上に一本だけ立っている木では人の見方は異なってくる。苔と木の関係、丘と空と木の関係を捉えるというように、周囲や部分の様相が異なれば同じ木でも別な木として受け取る。

枯れ木と新木と伐採する木を見ても類型が異なり、本質が別な類型化と結びつく。時間によって本質が変容している。

まとめると、二通りの認識と考えられる。前者は既知の記号の状況的差異を見ていく中で本質を捉えていき、後者は同質のモノが連続的に変化していく中で変化の本質を捉えていく。

もう少し書くことあったと思うが、眠くなったので、夢世界へ。

また次回。