vaiduryamuscari’s diary

自分用日記

岳史というヒトについて考えてみる

一番初めの記憶は2歳の頃、幼稚園入学が決まり、手提げバックに縫い付けるバッジを選ぶ記憶だ。

ウルトラマンセサミストリートの赤いやつ(名前は忘れた)、飛行機、もう一つ(忘れた)の四つから選ぶとき、ウルトラマンが良かったが、母のゴリ押しでセサミストリートの赤いやつとなった。そのとき、最初は母が悲しそうな表情をしていたが、だんだん明るくなっていくのが今も映像として流すことができる。

 

その次は、3歳の幼稚園に通っている所まで記憶が飛ぶ。ある朝、暗い瞼から目を開け飛び起き、すぐ布団を畳み、ご飯を食べに一階へ駆け降りる。それ以前の記憶は先述した通りなのに、トイレの位置も、橋の持ち方(間違った持ち方)も分かっていた。

次女が不思議そうな表情を顕にしていたのも覚えている。

 

私が記憶を掘り返す時は、いつも映像があり、そこに言葉を当てはめている。映像が時系列で並んでいるわけではない為、月日は定かでない。季節と大体の歳が出来事同士の関係と、言葉による事実によって当てはめることができる。

 

本はたくさん読んでいたが、高校二年までは言葉を介さない感覚で行動していた。言葉を話すのも、音読するのも、言われたことから何か始めるにも、いわゆる自生思考を介すのは、黙読、寝付く前に夢のようなことを妄想するときだけであった。

 

高二の時に鬱になり、大学二年で幻聴が聴こえ、大学四年と修士1年で身近な人の死という事実と主観的に裏切られたというような感覚を経験する。

 

何かを経験する時、主観的な衝撃、ショックの大きさによって自分というものは一部分欠けてしまうのではないか。欠けたものはアメーバのようにそのまま広がっていくのではないか。衝撃が大きいほど欠けた部分は遠くに飛ばされ、お互いがたどり着く間にそれぞれの経験を経た別な存在として合わさるか拒絶し合いながら近づくのではないだろうか。自身の中に様々な矛盾がある。私は多重人格ではないが、現実で知覚していること、幻聴で聴こえていること、自分の自生思考、言葉を介さない知的感覚、感情という起伏、自分の思い描く理想が別個の次元で関係し合いながら存在していると感じる。

 

まとめると、欠けた経験があり、欠けた部分はそれぞれ成長しながら戻ってきており、同化も別個に存在することもしていない。

メタファーで捉えると、恐らく自身の中に極端な色の違いがいくつか、部分的に混ざり合いながら存在している。

 

更に、このことを正しいとして経験を抽象的に話す。

一個の知覚(認識)を私がすると色の違いの分だけ反応が違い、更にはそれぞれの色の部分の領域と繋がっている経験も違う為、私の中で複数の色同士の結びつきの強さに影響しながら物事が進行する。二つの色の変化率が激しい所ほど、ある認識は大きい差、矛盾、二つの考えに近い存在を創り出す。

少し具体的には、最近、私がCDを買う借りるという経験をすると(まだ聴いていないヤツ)、小中学の頃、高校二年の頃、大学1年の経験と繋がり、その前後のうち、それぞれのCDの音楽を聴いた時の経験を記憶から連想する。それらの別領域の経験は刺激し合いながら混ざり合っていく。

またメタファーで例えると、欠けるという経験によって別個の木のような構造体が枝が

繋がりながら存在している。雨というある刺激(認識)が降れば、それぞれの構造によってそれぞれの意味が産み出され混じり合い、少しずつ刺激が薄まっていき構造体を育てる養分(経験)となる。

この時、産み出されたものの矛盾が大きい場所では更に次の刺激が産まれる事もある。

 

色んな人に当てはまるだろうけど、私は程度が大きいかもしれない

 

疲れたのでまた気が向いたら。