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vaiduryamuscari’s diary

自分用日記

人格の中の時間

前回、時が動き出したというような事を書いたが、時が止まっている時を振り返るとなかなか興味深い。時が止まっているとは正確には個人の時の歩みがかなり遅いということである。成長や変わるスピードが遅く、ある意味環境に適応していない状態である。時が遅くなる以前に積み上げた身体感覚、素養だけで生活していたように思う。

徐々に時が早く動き出すが、遅い時は周りがコロコロ変わっているように見え、自分もそれに合わせようとしてしまう。ある人がある時、誰かを好きだったのにもう変わっているなどと考えていた事も実際ある。
自分もそれに合わせようとするとは、相手が何を意図しているか全く読めない為に、なんとかその場しのぎをしようとする事であった。
脅迫的に迫られない限り、嘘はついた覚えはない。脅迫的に迫られる時は、その人の望む嘘をつく。

一旦、時間が動き出すと存在しなかった自分が身体に戻ったような感覚になった。これをおそらく自我と呼ぶのかもしれない。自我が出たり入ったりしていた時期から徐々に自我が保たれ始める時間が長くなる。
今日は1日自我が意識できていた。何年かぶりの感覚である。

簡単に例えると、部屋掃除しなくてはと頭で考えても、疲れていて身体が動かないという状態が疲れてなくても動かない状態が日常を支配しているみたいな感じだったと今は認識している。

これらを踏まえてメタ的に一つ次元をあげて考えてみる。今回のタイトルだ。
人格の中には時間がある。人格は時間とともに変容しあるいは成長したり劣化したりする。
その人格に関しての時間がもしも止まったら、おそらく、周りの変化に応答せず、それまで培った経験だけで現実の時計の刻む時間を過ごす。

この時間が止まる原因としてはストレスが掛かり過ぎていたように思う。自我が壊れるレベルでのストレスなのだろう。防衛本能で生きようとしていたのかもしれない。

色んな人に色んな話をした。大体が事実だが、それでも、あまり語っていない方なのだ。私の人生はなかなかかなり数奇であった。これから私に起こる事も大抵愛せそうである。