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vaiduryamuscari’s diary

自分用日記

undercurrent in Japan

本居宣長はあはれを事の心と物の心を掴む事だと述べた。

 

ここで言う心とは西洋の本質と対概念を指す言葉だと仮定します。

西洋の本質とは観念の中における一般的観測者を言うでしょう。観念の中で何も変わる事のない絶対的な存在であります。

 

対概念を成すと仮定した心とは絶対的ではなく変容する観念の観測者となります。。観念上の現象と捉えてもいいかもしれないです。

変わりゆく観念上の心をその瞬間に掴むこととなります。

 

建築は人間の速度ではなく、モノの速度の関係性で決まります。その時々の実際の現象によってその様態を変えるのは既によく言われている事であります。

西欧なら石材をメインにし、石材という本質を使いまわすため、日本の木材よりもずっと遅いスピードで建築が更新される。その為に西欧では変わらない本質が、日本では本質よりも変容するということを重要視しているように思います。

それが恐らく終戦後に統治の為に、恐らく物と事の支配から影響を受けて、心が本質へと理性の中で取って替わられたのか。それ以降、日本には統治の仕組みがあり続け、心を失ったようにも見えます。

そして技術革新の末、グローバル社会などが、ある時より騒がれ出しました。

それに抵抗するようにテロが世界で起こりますが、日本では国内の紛争さえ起こらないのは何故かと考えると、日本にはまだ心として物事を捉えるという実践が行われ続けていると考えられます。では、地質やジオメトリーや気候などだけではない日本の現代の情報やグローバル社会や速度をも含む風土をどの様に建築や都市として実践を行うのかと考えた時に、1人の頭の力を超えているでしょう。みんなで実践の記録をとり続ける必要があると感じます。

今、存在しているモノに積み上げて何かを作らなければ建築は進まない。これからは圧倒的な作家性の時代ではないのではないでしょうか。

牛の歩みみたいに少しずつ進んでいかなければならない気がします。

単独の批評性ではなく、論と実践と検証とをみんなで作る建築家を私は目指します。

 

その為に、建築家としてのあらゆる事に精通する能力と知識をできる限り(病まない具合に)広く深くこれから備えていこう。

大学7年目にしてようやくそのような考えに至りました。

 

これを序とします。