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vaiduryamuscari’s diary

自分用日記

風呂に浸り、哲学巨人を想い分析す。

デカルトはこう言いました。

もしかしたら貴方が考えたり思うことと私が考えたり思うことって違うかもしれないよね。

だけどさ、私が何かを感じたり思ったりすることは私には確かなことなんだよ。

私の感覚には貴方には認められないこともあるし、共通することもあるね。だから、共通して話せる方法を探そうよ。

 

ここまでがデカルト

ここからが現在の分析。

感覚的に受け入れられないと、デカルトの共通の話し方を用いたり、統計や大衆を使って2項対立の優位性を作る人が多数存在する。

先ずは嫌な感覚があってからの論理である。

良いイメージの感覚があってから、共通の〜(以下略)も多数存在する。

 

第三者は、

・それじゃダメじゃない?

と抜けようとする。自分の感覚や絶対的神の存在ではなく、論理的に自分を除く話をしようとする。

・要するに、自分が納得したいのだ。

ここを実践すると次第に、自分の感覚が細かく分析され、分析した分、個別のバラバラになり得る。もちろん、なり得ないかもしれない。自分の感情を分析していくと更に進んでいける。と同時に分析する経験が少なくなっていくので、日常の経験を欲し出す。欲せども欲せども即座に分析されるようになる。ここで感覚が死に絶えると同時に、次に論理が死に向かう。

・納得し続けて来たけど、いや、待てよ、感覚って大事じゃないか?

実は無いもの強請りである。ここの間にループが存在する。

ここのループを抜けるには次に人という存在から抜け出す。猫と哲学する人が、猫と猫のように関係を結び出し始め得る。でもこれは擬態である。

何処まで行ってもこの身体と心と身につけた術からは逃れられないと感じ得る。もちろん感じ得ないかもしれない。

 

よく言われる心技体は素直になるための訓練かもしれない。