vaiduryamuscari’s diary

自分用日記

時間と空間と独り言

なぜこの世界に時間と空間があるのだろうか?

時間さえなければ、空間さえなければ、こんなに世界の物語に引き裂かれることも無かっただろうに。

 

どんなに想像しても、時間と空間は無関心に変化を重ねる。ならばこの現実に身体を馴染ませ、事あるごとに、冒頭の問いを考えなければならない。人が何かに意味を見出す限り問いは続く。

本能だけでは生きられない人間の業だ。

 

しかし、そうであるならば、善人がこの身体の有用性に気づいたならば、この世界をより良くしたいと考えるであろう。異なる次元の時間と空間が干渉する狭間のこの世界で、この世界を、人間の為により良くしなければと使命を見出す。

 

続く疑問は、どうしたらこの世界をより良く出来るのかということになる。

ただ、人間界の総体の努力しかないであろう。1人の人間が導き手として、人間界の総体を大きく左右する者として現れることも歴史、物語では既に記録として、今の土台としてあった。

小説の中の泥棒がこの世界にハリケーンを起こすこともあった…

 

そうして向かう先には、最後の疑問が残る。

私にはこの世界の為に何ができるのか?

縁(えにし)あった人たちから縁のない人々まで、世のために何ができるのか。

個人の微視的環境、個人の世界を縁のある世界と捉える。手の届く世界の人たちがより多くの幸せを時間と空間の狭間の世界で果たして何回見つけられるのであろう。そして何回絶望が訪れるのだろう。

 

時間と空間の狭間の世界において、建築によって、この世界の中に記録を作る。

 

個人的な話になるが、縁を繋いでいった物語として、私は今、保育所を比較的に多く手掛けるアトリエ事務所で、試用期間として働いている。

人の為、施主、建築の技術、施工者を考え、その思考の果てを、丁寧に速く一枚の絵や模型に顕す事が、この事務所、社会での私の務めとなっている。それと同時に冒頭の疑問を自らの問いとして自己研鑽を重ねていく。

 

それぞれの私にできることの結論を言えば、努力だけ、であった。

私個人の努力する先は、

保育所とは現代の多くの建物ではいかなるものであろうか。そしてどうあるべきか。

子どもの振る舞いをより良くする。要するに、未来を託せる若者へと成長する為の礎となる空間とはなんなのだろうか。

同様に私はどのような場所でどのように育ったのかという事が良くも悪くも問題となる。

それらの疑問からそれぞれ浮かぶ空間を現実に現れる衣とみなした時の目に見えない大事なものが背後に感じれるか。

 

背後のウロの世界から、この現実の世界に建築するならば、個々人が、その背後の見えない世界を構築する必要がある。

 

私の構築した世界はわたしの思い込みで崩れてバラバラとなってしまった。

これら一つ一つの葉っぱのようなものを拾い集めて、繋いでゆき、組み替え、根を張り、幹を太くし伸ばし、枝を張る。

しかし、誰しも皆、程度の差があるだけで同じだろう。

 

個人の生命力、野生、本能、思考、幾何学、物の歴史、人の物語、

どれを取っても永遠と続いていく。

時間と空間の有限性の中で、努力する。

明日にでも滅ぶかもしれない。この後、何百何千年と続くかもしれない。

そして、私も明日に死ぬかもしれない。ヨーダのように600年生きるかもしれない。

 

死によってこの世界から去るまで、私は努力を続けようと思うよ。

しばらく本能に身を委ねよう。

私は自分の未来について、私自身に賭けてみる事にした。